2021年08月15日
| 映画上映情報 | ラウペ
高校生のオータムはあるとき自分が妊娠していることに気づく。検査は陽性で、中絶するにはどうしたらよいかネットで調べると、自分の住んでいるペンシルベニアでは両親の同意が必要で、隣のニューヨークに行けば、同意なしで中絶できることを知る。スーパーで一緒に働く従妹のスカイラーとともにニューヨーク行きのバスに乗る・・・
まるでヨーロッパ映画のような、抑えたトーンと陰鬱な雰囲気。
オータムが妊娠した経緯や相手についての説明は無し。
ただ、オータムがこの妊娠を決して望んでいなかったことは劇中の描写からも明らかで、スカイラーはそのことを察し、カネを用意して同行することにした。
オータムの父親はどうやら継父で、オータムにあからさまに不快な対応をする。それだけでなく、この映画に出てくる男は全員不快なゴミクズとして描かれ、まともな男は一人も登場しません。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』でもそうでしたが、この男に対するステレオタイプ的拒否反応は監督の男性観の表れか、それとも作劇上の必要から意図的になされたものか、一見ちょっと判断の難しいと感じるところ。
映画は完全にオータムの一人称目線で終始し、その点で邦題は正鵠を得ているとも言えるのですが、問答無用でゴミクズにカテゴライズされてしまう私ども男の立場からすると、そういう男ばかりじゃない!という思いは捨てきれず。
しかし、少なくともオータムの目線に寄り添うならば、彼女の世界ではそうした男しかいない、あるいは〇〇に手足がついただけの醜悪な生き物のようにしか見えない、ということを納得しなければならないのでしょう。
彼女が望まない妊娠をしたことがどれほどのトラウマとなっているかを見ると、それもむべなるかな、と思わざるを得ないのです。
オータムとスカイラーがニューヨークに向かい、中絶手術を受けに行く過程を淡々と描写することで、映画は行間を読んで彼女の心中を察するように、観る者に実質的に明示しているわけです。
周囲の男はクソばかり、相談に乗ってくれる相手はほとんどおらず、中絶のカウンセリングをしてくれる団体の関係者はどれも事務的ながら的確にアドバイスを加え、援助の方法についても具体的に案内してくれる。
日本で未成年の妊娠について、こうしたアドバイスをしてくれる組織がどれほどあるのか実態はよく知りませんが、この映画に出てくるような手厚い援助は望めないのではないでしょうか。
寄り添ってくれるスカイラーは心の支えにはなっても、この忌まわしい事態を相談する気にはなれないようです。
彼女にとって、むしろこうした赤の他人の的確なアドバイスの方が問題の実際の解決には役に立っているように見えます。
一面では、本来親身になって相談する相手がいる方が良いに決まっているわけですが、そうせざるを得ない彼女のおかれた状況が、この映画の主眼とするテーマでもあるわけです。
原題の“Never Rarely Sometimes Always”はそれだけでは何の意味なのか理解できないのですが、物語のなかでそれが持つ意味が明らかになるとき、彼女が頼りにしなければならない相談相手が今の彼女にとってアドバイスを受けるのに適している理由、また相変わらず世の中に蔓延るジュエンダーバイアスが、女性にとって著しく不均等であることを如実に示していることを思い知る、大きなインパクトを受けるのです。
旧来の価値観から抜け出せない男性にとっては耳の痛い話かもしれませんが、知らず知らずのうちにジェンダーバイアスの不均衡に手を貸していたりしないか、自問自答するためにも多くの人が観ておくべき映画だと思うのでした。
『17歳の瞳に映る世界』
2021/8/13(金)~8/19(木)まで上映
①17:20~19:05
VIDEO
Posted by サールナートホール 静岡シネ・ギャラリー at
12:28