ドキュメンタリー作家を目指す須山は小さな映像制作会社でディレクターとして取材を行っていたが、先輩ディレクターと対立、仕事を投げ出して3年前に出会った少年の「今」を取材すべく西成に向かう。不誠実な手法で取材を続けるうち、須山はさらなる深みに嵌っていく・・・
本作は2014年に映像制作者の支援と映像文化の発信を目的とした大阪市の助成金の対象となり製作されたが、完成した映画は大阪市から大幅な修正を求められ、監督はこれを拒否。助成金を返還し、上映は中止。その後は東京国際映画祭や数度の上映会での上映に留まり、長らく一般公開されなかった作品。
助成金を巡る騒動の顛末や行政が映画の内容に修正を求めることへの問題点など、パンフレットに詳しく書かれていますが、アート作品への行政の介入が改めて問われている2019年という年に一般公開されることの意味は非常に大きなものがあると思います。
本作は須山役を太田信吾監督自らが務めるほか、登場人物の多くが本人役で登場するなど、物語は創作であっても、劇中に登場する「リアル」は現実のもの。
1990年代の前半に仕事で大阪に行った際、現地の雰囲気を知りたくて西成の近くや飛田新地を歩いてきたことがありますが、部外者には強烈なアウェー感を伴う殺気を帯びる独特な空気は体に沁み込む体験となりました。
物語の前半、東京で引き籠りの青年を取材する過程で先輩ディレクターと対立する場面は作り物的余所余所しさの漂う違和感を伴うのですが、そこには取材対象について予め意図された方向に沿う形に嵌めようとする強引さが漂い、さまざな「やらせ」問題と地続きな、メディアの在り方を問う意図があってのことと感じました。
西成に舞台を移してから主人公の陥る自業自得ともいえるさまざまな困難の連続や、助手として連れてこられた東京の引き籠り青年の状況は、堕ちていく人々の流れ着くところのシンボルとしての西成をリアルに映し出します。
見るからにヤバ気な雰囲気とそこに居る人々の独特の連帯感、それを支援する人々・・・それが交錯することで、メディアを通したスクリーンやテレビの手前に居る観客もまた傍観者的立ち位置の見直しを迫られることになるのです。
そしてついに主人公の行き着くどん底の先に起きる出来事は、このどうしようもないほどのクズ男にとって最後に残る大切なものがなんなのかを見せられます。
手慣れた感じとは無縁な手作り感漂う作風が意図されたものか、それとも地なのか分かりませんが、ドキュメンタリーともドラマともつかない、行方の定まらない浮遊感が、スクリーンの向こうに見える世界に直結した現実を覗き見るためのツールとして、よく練られたドラマとはまったく異なる透明さで伝わる「リアル」の生々しさを体験することが出来たのでした。
なお、太田監督は静岡出身のラッパーたちと『解放区』公開記念のイベントを準備中とのこと。開催日は11/29(金)19:00~街中にて(参加無料)。
「静岡の"解放区"を立ち上げられたらと考えております。」とのことですので、ぜひご参加いただければと思います。
『解放区』(R18+)
11/23(土)~12/6(金)連日①17:30
http://kaihouku-film.com/
(C) 2019「解放区」上映委員会
Posted by サールナートホール 静岡シネ・ギャラリー at
15:34