ナポリの労働者階級で船乗りをしているマーティン・エデンはふとしたきっかけでブルジョア階級の娘エレナと知り合う。エレガントで知的な上流階級に憧れたマーティンはエレナに恋するとともに自らをそれに近づけるために本を読み、作家を目指す・・・
アメリカの作家ジャック・ロンドン(1876-1916)の自伝的小説をイタリアに置き換え映画化。
大まかなプロットは一応恋愛小説の体をしていますが、物語の本質は階級格差がもたらす人の内面の物語。
舞台がイタリアに変更されたことの他に時代設定も1950-60年代ごろを思わせるものになっていて、カラーテレビなどの電化製品、クルマも60年代前後のものが登場していますが、これらのアイテムは時代のイコンとして画面に出てくるわけではなくて、むしろ映画的には時代設定を曖昧にし、時代に囚われない普遍的問題としたいとの意図があるように思われます。
予備知識なく画面を見ていると階級的軋轢に関する会話が、どうみても戦後しばらく経った頃の時代描写と合わないことに違和感を感じることと思うのですが、ここは人物のみに集中して物語を受け入れる必要があるでしょう。
とはいえ、ジャック・ロンドンの自伝的小説をトレースしている、ということは、どうしても20世紀初頭-第一次大戦頃の社会主義の受容や階級対立について、それなりの予備知識がないと分かりにくい(特にマーティンのジレンマの原因について)かもしれません。
マーティンがエレナと会うのが1900年代の中ば、作家として成功したあとは第一次大戦開戦直前、と脳内で設定し直すことで、会話の中身が時代と正しくリンクすると思います。
映画は殆ど全てのシーンにマーティンが登場し、画面も寄りの絵作りが多く、これはマーティンの一人称視点の映画であることが分かります。
はじめてエレナの家に足を踏み入れてからブルジョアの生活に衝撃を受ける場面では、未知なる世界を覗く驚き、それに対する渇望が彼の奥底に秘めていた知性を目覚めさせるきっかけとなります。
会話の端々に言語に表現することへの貪欲さが窺われて、物語のはじめから引き込まれるのでした。
エレナへの恋愛の心持ちはブルジョアへの憧れとある程度不可分なもので、このことが物語が進むうちに大きな問題となっていきます。
ブルジョアの生活を知らなかったマーティンにとっては生活様式の違い以上に物の考え方の違いに戸惑い、エレナにとってはマーティンのジレンマが理解できない。
このことはマーティンにとって自分の属する階級とブルジョアとの違いについて、自らの体験として身につけてきた感覚を言語化することで、論理を伴う確信に変わっていくのです。
これを決定づけたのが、ブリッセンデンとの出会い。
いち早くマーティンとエレナの間にある根源的な違いに気づき、また彼の階級の立脚点がどこにあるのか知らしめるために社会主義者の集まりに連れていく。
社会主義者の集まりでのマーティンの発言は早口でなかなか理解していくのは難しいのですが、そこには彼らとマーティンの理想とする社会像との間に小さくないギャップがあることが顕わになります。
マーティンの思想は社会主義的というより、むしろアナーキズム的であり、あらゆる支配的制度に対する敵意と不寛容に立脚しているのでした。
これはエレナの家でのディナーの際の会話で資本主義に対する強烈なアレルギーの表明と対を成し、マーティンの立ち位置が社会のなかできわめて限られたものであることが明らかになるのです。
物語は唐突に功成り名を遂げたマーティンの様子に遷移するのですが、そこで描かれる物質的に恵まれた生活が、自らの文学的・思想的姿勢との非常に大きなギャップに苛まれる姿を見て絶望的な気分に打ちのめされることになります。
この前半と後半の大きなギャップ、それを体現するルカ・マリネッリの圧倒的存在感。
これは本当に素晴らしい。
全編フィルム撮影によるフィルムグレイン強めの古色蒼然とした質感が、この息苦しい絶望的物語をなお一層際立たせていると思います。
熱にうなされるように茫洋とした景色の中を浮遊する感覚でエンディングを迎え、マーティンの背負ったものの大きさ、耐えがたいジレンマを思うと、椅子から立ち上がるのに大きなエネルギーを要するのでした。
『マーティン・エデン』
2020/10/16(金)~10/29(木)迄
2020/10/16(金)~10/22(木)
①12:20~14:35
②17:00~19:15
2020/10/23(金)~10/29(木)
時間未定
時間は
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